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ぼくが郷愁を誘われるもの、それは森繁久弥主演のミュージカル「屋根の上のヴァオリン弾き」、夕方5時に家の周辺で鳴り響いている「新世界」。遠き山に日が落ちて...っていう曲。それとキャンプファーヤーの「炎」などである。どれも寂しさと温かさがあり、それが郷愁を呼び起こしているよう。 ここではそのうちのキャンプファイヤーについて話します。大学生のとき遊びに行った学園祭と小中学校時代の課外授業でのこと。 学園祭は昭和58年の秋。女の子たちと、その年の夏、クラブの合宿先へ行く電車の中で知り合った。その子らは仙台にある宮城県立保母専門学院の学生。合宿先は気仙沼からさらに船に乗って行った大島。そこで合流することになったわけで、みんな年下にもかかわらず、「自分」というものをしっかりもった不思議な魅力のある子たちだなと、とても好感がもてた。その印象がずっと頭に残っていたためか、結局その秋、いそいそと学園祭に遊びに行ってしまった。最終日の夕暮れどき生徒の団結を深める伝承儀式があって、それは小さな校庭に古代ギリシア人のような白い布をまとった4人の女生徒が素足で登場するところから始まる。たいまつをもった子らは四方に分かれ、人の高さほどに組まれた薪(丸太)を囲み、ゆっくりと近づいて点火。その後、周りの生徒たちが来訪者を交えて周囲を回りながら踊るんです。 「ハイサカズンバー、ズンバー、ズンバー、ハイサカズンバー、ズンバー、ズンバー、エンヤラヤー、エンヤラヤー、オーー、ソーレッ!」 と全員で声を掛け合いながら交互の足でケンケンし、両足を揃えての数ステップを交えてひと区切り。それを延々と100回続けるんです。100回っていうのはかなりきついもので、途中、励まし合いながらなんとか終演を迎える。終わった後は何とも言えない充実感があり、知らない女の子から「お疲れさまでした!」と元気な声で挨拶もされ、妙に心地よかった。踊り始めておよそ30分、辺りはもう真っ暗。「炎」のせいだろうか、みんな仲間になったような、そんな気がした。校庭付近から帰り道までを生徒らのろうそくの灯りで導いてくれた。翌年、さらに社会人になってからも何回か行ってみたが、そこには変わらない感動があった。 その子たちが育っている環境のなかに「炎」があったのです。
そしてもう一方の体験、昭和50年頃の夏、小学六年生それに中学一年生のときの課外授業でのこと。あのときのキャンプファイヤーもよかったなあ。
どちらも炎が心に残っている。
そう、普段の生活に炎を取り入れればいい。薪を使ったかまどでの調理、オリジナルの囲炉裏や暖炉、炎を楽しめる薪ストーブもいい。
人々に落ち着きや一体感、本当の温かさを与えてくれる「炎のある暮らし」を、あらためて見直す時が来たのかもしれない。
(ここに掲載している一部の写真は、暖炉メーカー「Handol」「JOTUL」「VERMONT CASTINGS」のカタログからのもので、これらの製品を取り扱っている大立目勇次さんの了解を得て使用しております)
暖炉設計士 大立目勇次 Yuji Ootachime
(この取材は'99年4月、ちょうど桜の咲いている頃、一関市の磐井川沿いにある大立目さんの自宅兼事務所の一室で、愛用の薪ストーブが入口のドアから入り込む柔らかな光りを浴び、しずかにジャズが流れるなかで行われた。)
この仕事を始めて15年。始めた時と今とでは意識がちょっとちがうんだけど、当時、暖炉、薪ストーブは洋風なもので輸入住宅といっしょに入ってきた。ペンションとか別荘から広まって、われわれの業界自体がそこから始まった。ペンションっていうのは洋風の民宿ですよね(笑い)。ペンションブームってあったんだけど、時代がそうだったんだね。リゾートマンションができて、ペンションができて、われわれの仕事もそれといっしょに入ってきた仕事で、むしろ形から入ってきた。洋風の建物だから暖炉がなくちゃいけないんじゃないかって。ペンションなどはドイツの家も、イギリスの家も暖炉があるから暖炉がなくちゃいけないとかね。
でも15年経って考えてみると日本には囲炉裏があったし炉端があるんだよね。
向こうに行って何を思ったかっていうと「普通に人は暮らしているんだなあ」って。当時日本は高度成長の中を進んできた中で、まだバブルの前ではあったんだけど結局はずっと右方上がりで、工業生産にしてもいろんな商売にしても伸びてきていた時代だった。そのころのわれわれの生活には落ち着きがなかった。いつも新しいものとかもっといいもの、もっといいものって。
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